2024年9月、多くのファンに惜しまれつつ土俵を去った元関脇・妙義龍関。スピード感あふれる取り口で人気を集め、長く幕内で活躍しましたが、その引退の裏にはどのような理由があったのでしょうか?本記事では、妙義龍関の引退理由や引退時期、引退会見での言葉、そして年寄「振分」としての新たなスタートについて、詳しく解説していきます。現役時代の功績や知られざるエピソードにも触れながら、妙義龍関の相撲人生を振り返ります。
妙義龍の引退理由|ファンが気になる真相とは?
長年にわたり、そのスピードと技能でファンを魅了してきた妙義龍関。彼の突然の引退発表は、多くの相撲ファンに衝撃を与えました。引退の背景には、どのような理由があったのでしょうか。ここでは、引退決断に至った主な要因を探っていきます。 本章では、以下の内容について解説します。
- 引退決断の最大の理由は度重なる怪我
- 体力の限界と年齢的な要因
- 引退を決意した具体的な時期ときっかけ
引退決断の最大の理由は度重なる怪我
妙義龍関の引退における最大の理由は、やはり度重なる怪我の影響が大きいと考えられます。彼の15年間の現役生活は、まさに怪我との戦いでした。新十両昇進直後の2010年1月場所では、左膝前十字靭帯断裂という大怪我を負い、一時は三段目まで番付を落とす苦難を経験しました。それでも不屈の精神で幕内まで這い上がり、関脇まで登り詰めましたが、その後も右後腹膜血腫(2014年)、左目網膜剥離(2014年)、左膝半月板損傷(2015年)、右下腿三頭筋肉離れ(2019年)など、数々の怪我に見舞われました。そして、引退の直接的な引き金となったのが、2024年9月場所を全休する原因となった「左変形性膝関節症」です。引退会見でも「怪我には負けたくないという気持ちでやってきた」と語っており、満身創痍の状態で最後まで戦い抜いたことがうかがえます。これらの怪我が、彼のパフォーマンスに影響を与え、最終的に引退を決断させる大きな要因となったことは間違いありません。
体力の限界と年齢的な要因
度重なる怪我に加え、年齢による体力的な限界も引退理由の一つとして考えられます。妙義龍関は引退時37歳。これは力士としてはベテランの域であり、長年の激しい稽古や本場所での消耗は、想像を絶するものがあったでしょう。引退会見では、「ここ2、3年ぐらいは自分の相撲が取れないな、今までと違うなと感じていた」と、自身の体の変化を認識していたことを明かしています。具体的には、持ち味であったスピード感や体の柔らかさが失われてきたと感じていたようです。また、「まさかこの年まで現役でできると思わなかった」という言葉からは、自身が設定していた限界を超えて土俵に立ち続けてきた達成感と、同時に体力の限界が近づいていることへの認識がうかがえます。怪我の影響と相まって、年齢的な衰えが引退という決断を後押しした可能性は高いでしょう。
引退を決意した具体的な時期ときっかけ
妙義龍関が引退を具体的に意識し始めたのは、引退会見での「ここ2、3年ぐらい」という発言から、2022年頃からと考えられます。この時期から、自身の持ち味であるスピードや体のキレに衰えを感じ始めていたようです。そして、引退の直接的なきっかけとなったのは、2024年9月場所の休場でしょう。場所前に診断された「左変形性膝関節症」により、初日からの休場を余儀なくされました。この休場により、翌場所での幕下への陥落が濃厚な状況となりました。関取として土俵に上がり続けることに強いこだわりを持っていた妙義龍関にとって、幕下で相撲を取るという選択肢は考えにくかったのかもしれません。長年苦しめられてきた膝の怪我が悪化し、関取の地位を守ることが難しくなったこと、そして自身のパフォーマンスに納得がいかなくなったこと。これらが複合的に作用し、2024年9月場所後の引退決断に至ったと考えられます。
妙義龍の引退発表と引退会見
2024年秋、角界に一つの区切りが訪れました。元関脇・妙義龍関が現役引退を発表。そのニュースはファンや関係者に驚きと寂しさをもたらしました。ここでは、引退発表の経緯と、涙ながらに語られた引退会見の様子、そして寄せられた反応を振り返ります。 本章では、以下の内容について解説します。
- 引退発表はいつ?
- 引退会見での涙と語られた思い
- ファンや関係者からの反応
引退発表はいつ?
妙義龍関の現役引退が発表されたのは、2024年9月24日のことでした。この日、日本相撲協会は理事会を開き、妙義龍関の引退と、年寄「振分」の襲名を承認したことを正式に発表しました。引退の背景には、同月に行われた大相撲秋場所(9月場所)を「左変形性膝関節症」により全休したことがありました。この休場により、十両の地位から幕下への陥落が決定的となっていました。妙義龍関は兵庫県高砂市出身、埼玉栄高校、日本体育大学を経て境川部屋に入門。2009年夏場所に初土俵を踏み、着実に出世街道を歩みましたが、怪我による苦難も経験。それでも見事に復活し、長く幕内、そして三役で活躍しました。その功績ある力士の引退発表は、多くのファンにとって寂しいニュースとなりました。
引退会見での涙と語られた思い
引退発表から2日後の2024年9月26日、妙義龍関は東京・両国国技館で引退会見に臨みました。師匠である境川親方(元小結・両国)と共に会見場に現れた妙義龍関(当時・振分親方)は、時折言葉を詰まらせ、涙を見せる場面もありながら、15年間の現役生活への思いを語りました。「悔いもないし、全てやりきった。まさかこの年まで現役でできると思わなかった。幸せな土俵生活でした」と、清々しい表情で語ったのが印象的です。また、「怪我には負けたくないという気持ちでやってきた」と、幾度もの試練を乗り越えてきた相撲人生を振り返りました。特に印象に残る一番として、新入幕の場所で大関(当時)の琴奨菊関を破った取組を挙げ、「自分の良さが出て、前に出て勝てた一番」と語りました。会見の最後には、ファンや関係者への感謝の言葉を述べ、第二の人生への決意を新たにしました。
ファンや関係者からの反応
妙義龍関の引退発表と引退会見を受け、ファンや相撲関係者からは惜しまる声と労いの言葉が数多く寄せられました。SNSなどでは、「長い間お疲れ様でした」「スピード感あふれる相撲が好きだった」「怪我に苦しみながらもよく頑張った」「寂しいけど、これからの親方人生も応援します」といったコメントが相次ぎました。特に、新十両での大怪我から這い上がり、三役まで務め上げた不屈の精神力や、技能賞6回、金星6個という輝かしい実績に対する称賛の声が多く見られました。また、師匠の境川親方も会見で「真面目で稽古熱心。部屋の若い衆の手本だった」とその人柄と努力を称え、今後の親方としての活躍に期待を寄せました。多くの人々に愛され、尊敬されてきた妙義龍関。その引退は、改めて彼の存在の大きさを感じさせるものでした。
妙義龍の引退後|振分親方としての新たな道
土俵に別れを告げた妙義龍関ですが、その相撲人生は終わりではありません。年寄「振分」を襲名し、今後は後進の指導にあたることになりました。ここでは、振分親方としての新たなスタートについて詳しく見ていきましょう。 本章では、以下の内容について解説します。
- 年寄株「振分」を襲名
- 親方としての指導方針や目標
- 今後の活動予定
年寄株「振分」を襲名
妙義龍関は、現役引退と同時に年寄「振分(ふりわけ)」を襲名しました。これは、引退後も日本相撲協会に残り、指導者として活動するために必要な資格です。年寄株は数に限りがあり、取得や襲名は簡単なことではありませんが、妙義龍関は現役時代の功績や貢献が認められ、この名跡を継承することになりました。「振分」という年寄名跡は、過去には元小結・高見盛(現・東関親方)なども襲名したことがある由緒ある名前です。妙義龍関は引退発表と同時に襲名が承認されたため、引退後すぐに「振分親方」として新たな一歩を踏み出すことができました。今後は、所属していた境川部屋の部屋付き親方として、後進の育成に携わっていくことになります。土俵で培った経験と知識を、若い力士たちに伝えていく役割が期待されています。
親方としての指導方針や目標
振分親方(元妙義龍)は、引退会見で今後の指導について問われると、「相撲に真っすぐな気持ちを持てるような力士、怪我に負けない強い精神力を持った力士を育てたい」と抱負を語りました。これは、自身が怪我と戦い抜いた経験からくる、強い思いの表れでしょう。具体的な指導法については、まだ模索中かもしれませんが、自身の持ち味であったスピードや前に出る相撲、そして何よりも諦めない心を伝えていくことが予想されます。また、師匠である境川親方からは「部屋の若い衆の手本だった」と評されるほど真面目な性格であり、その真摯な姿勢で力士たちと向き合っていくはずです。目標としては、まず部屋の力士たちの育成に全力を注ぎ、将来的に境川部屋から、そして角界全体から、ファンに愛される強い力士を輩出することでしょう。振分親方の指導者としての手腕に、大きな期待が寄せられています。
今後の活動予定
振分親方としての活動は、主に所属する境川部屋での指導が中心となります。日々の稽古場で若い力士たちに胸を出し、自身の経験に基づいたアドバイスを送るなど、部屋の強化に貢献していくことになります。部屋付き親方として、師匠である境川親方を支えながら、部屋の運営にも関わっていくでしょう。また、日本相撲協会の構成員として、本場所での審判委員や、巡業での職務など、協会から与えられた役割も担っていくことになります。2024年11月には、地元・兵庫県で開催された「大相撲姫路場所」にも登場し、元気な姿を見せてファンを安心させました。今後、解説者としてテレビ中継に登場する機会もあるかもしれません。断髪式の日程はまだ発表されていませんが(2025年4月現在)、多くのファンや関係者が集い、盛大に行われることが予想されます。振分親方の第二の相撲人生は、始まったばかりです。
妙義龍の現役時代の功績とプロフィール
15年間の長きにわたり、土俵を沸かせ続けた妙義龍関。その相撲人生は、輝かしい功績と、怪我という試練を乗り越えた軌跡でもありました。ここでは、妙義龍関の現役時代の活躍ぶりと、その人となりがわかるプロフィール、そしてプライベートな一面にも迫ります。 本章では、以下の内容について解説します。
- 輝かしい成績と三賞受賞歴
- プロフィールと経歴
- 家族構成とプライベート
輝かしい成績と三賞受賞歴
妙義龍関の現役時代の成績は、その実力を物語るに十分なものです。幕内通算成績は495勝539敗31休(71場所)、生涯戦歴では601勝597敗79休(91場所)という数字を残しました。最高位は関脇で、合計13場所務めました。これは、三役経験者の中でも上位に位置する記録です。彼の相撲を象徴するのが、三賞の受賞歴です。特に技能賞を6回も受賞している点は特筆すべきでしょう。これは、彼のスピードと多彩な技が高く評価されていた証拠です。前に出るスピード、低い重心からの押し、そして時折見せる鮮やかな投げ技は、多くのファンを魅了しました。さらに、横綱から勝利を挙げる金星も6個獲得しています。これは、彼が上位陣にとっても脅威となる存在であったことを示しています。得意な決まり手は「寄り切り」と「押し出し」が中心ですが、「叩き込み」も多く、スピードを生かした取り口がデータからも見て取れます。数々の怪我を乗り越えながら、これだけの成績を残したことは、彼の精神力の強さとたゆまぬ努力の賜物と言えるでしょう。
プロフィールと経歴
妙義龍泰成(みょうぎりゅう やすなり)関は、1986年10月22日生まれ、兵庫県高砂市の出身です。本名は宮本泰成(みやもと やすなり)。幼少期から水泳や体操、柔道など様々なスポーツに親しみ、小学2年生から相撲を始めました。中学では陸上部に所属しながら相撲を続け、相撲の強豪校である埼玉栄高校に進学。その後、日本体育大学でも相撲部で活躍し、4年時には国体で個人優勝を果たし、幕下15枚目格付出の資格を得ました。大学卒業後、境川部屋に入門し、2009年5月場所に本名の「宮本」で初土俵。すぐに頭角を現し、2010年1月場所で新十両に昇進、四股名を「妙義龍」に改めます。しかし、その場所で左膝に大怪我を負い、三段目まで陥落。約1年間のリハビリを経て復帰し、2011年11月場所で新入幕。その後は順調に番付を上げ、2012年7月場所で新三役(小結)、同年9月場所には関脇に昇進しました。身長188cm、体重150kg台の恵まれた体格とスピードを武器に、長く幕内で活躍。2024年9月場所後に引退し、年寄・振分を襲名しました。
家族構成とプライベート
土俵上では厳しい勝負の世界に身を置いていた妙義龍関ですが、プライベートでは家庭を持つ父親としての一面も持っています。2015年9月29日に、高校時代の同級生であった女性との結婚を発表しました。お相手は一般の方で、名前は香奈(かな)さんというそうです。結婚発表と同時に、同月の9月17日に第一子となる長男が誕生していたことも明かされました。家族の存在は、厳しい現役生活を送る上での大きな支えとなっていたことでしょう。引退会見にも家族が駆けつけ、その門出を見守りました。趣味は釣りで、Facebookも利用しているとのこと。好物はステーキ(特にリブやサーロイン)やジンギスカン鍋だそうです。土俵を離れた振分親方は、これからは家族との時間も大切にしながら、親方としての新しい道を歩んでいくことになります。穏やかで優しい人柄は、きっと若い力士たちにとっても頼れる存在となるはずです。
よくある質問
妙義龍の引退はいつですか?
妙義龍関の引退が日本相撲協会から正式に発表されたのは、2024年9月24日です。同日に行われた理事会で、妙義龍関の引退と年寄「振分」の襲名が承認されました。引退の届け出自体は、秋場所(9月場所)終了後に行われたと考えられます。引退会見は、その2日後の9月26日に両国国技館で行われました。
妙義龍の引退理由は具体的に何ですか?
妙義龍関の引退理由は、複合的なものと考えられますが、主な要因は以下の3点です。
- 度重なる怪我:特に引退直前の2024年9月場所を全休する原因となった「左変形性膝関節症」の影響が大きいとされています。過去にも膝や目、足など多くの怪我を経験してきました。
- 年齢と体力的な限界:引退時37歳。引退会見でも「ここ2、3年は自分の相撲が取れないと感じていた」と語っており、持ち味のスピードやキレの衰えを自覚していたようです。
- 番付の問題:2024年9月場所の全休により、翌場所での幕下陥落が濃厚となっていました。関取の地位を守れなくなることも、引退決断の一因となった可能性があります。
妙義龍が襲名した年寄株は何ですか?
妙義龍関が引退と同時に襲名した年寄株は「振分(ふりわけ)」です。これにより、引退後も日本相撲協会に残り、「振分親方」として後進の指導にあたることになりました。現在は、元々所属していた境川部屋の部屋付き親方として活動しています。
妙義龍の最高位は何ですか?
妙義龍関の現役時代の最高位は「関脇」です。新入幕からわずか1年後の2012年9月場所で関脇に昇進し、その後も複数回、関脇の地位を務めました。合計で13場所、関脇として土俵に上がっています。
妙義龍の本名は何ですか?
妙義龍関の本名は「宮本 泰成(みやもと やすなり)」さんです。初土俵を踏んだ2009年5月場所では、本名の「宮本」で相撲を取っていました。新十両に昇進した2010年1月場所から、四股名を「妙義龍 泰成」に改めています。
妙義龍の同期は誰ですか?
妙義龍関は2009年(平成21年)5月場所に初土俵を踏みました。この時の同期生には、同じく幕内で長く活躍した碧山関などがいます。他にも多くの力士がいますが、特に碧山関とは幕内での対戦も多く、良きライバルとして角界を盛り上げました。
妙義龍の家族構成は?
妙義龍関(現・振分親方)は、妻と長男の3人家族です。奥様は高校時代の同級生で、2015年に結婚されました。同年には長男も誕生しています。家族の支えが、厳しい現役生活を乗り越える力になったことでしょう。
振分親方とは誰が襲名した年寄名跡ですか?
「振分(ふりわけ)」は、日本相撲協会の年寄名跡の一つです。2024年9月24日以降、この名跡を襲名しているのは元関脇・妙義龍(本名:宮本泰成)です。過去には、元小結・高見盛(現・東関親方)や、元大関・霧島(現・陸奥親方、停年退職)なども襲名していました。
まとめ
本記事では、元関脇・妙義龍関の引退について、その理由や背景、引退後の活動などを詳しく解説しました。最後に、記事の重要なポイントをまとめます。
- 妙義龍の引退発表は2024年9月24日。
- 引退理由は度重なる怪我(特に左膝)が最大要因。
- 年齢(37歳)による体力的な限界も一因。
- 2024年9月場所全休による幕下陥落が濃厚だった。
- 引退会見は2024年9月26日に行われた。
- 会見では「悔いもないし、全てやりきった」と語った。
- 引退と同時に年寄「振分」を襲名した。
- 現在は境川部屋付きの親方として後進を指導。
- 指導方針は「怪我に負けない精神力」を重視。
- 現役時代の最高位は関脇(13場所)。
- 技能賞を6回、金星を6個獲得した。
- 幕内通算495勝、生涯通算601勝。
- 本名は宮本泰成、兵庫県高砂市出身。
- 妻(高校同級生)と長男がいる。
- 振分親方としての今後の活躍が期待される。