「人の記憶って、どうやって作られて、どうやって変化していくんだろう?」そんな疑問に答えるヒントをくれるのが、イギリスの心理学者フレデリック・バートレットの研究です。本記事では、バートレット心理学の中心的な考え方である「スキーマ理論」や、有名な記憶実験「幽霊の戦争」について、初心者にも分かりやすく解説します。記憶の不思議なメカニズムを探求し、私たちの日常的な経験にもつながる発見を一緒に見ていきましょう。
フレデリック・バートレットとは?経歴と心理学への貢献
まずは、バートレット心理学の提唱者であるフレデリック・バートレット卿(Sir Frederic Charles Bartlett, 1886-1969)についてご紹介します。彼は20世紀の心理学、特に認知心理学の分野に大きな足跡を残したイギリスの心理学者です。
本章では、以下の点について解説します。
- バートレットの生涯とケンブリッジ大学での活動
- 実験心理学へのアプローチ:自然な状況下での研究
- 主な業績と後世への影響
バートレットの生涯とケンブリッジ大学での活動
フレデリック・バートレットは1886年にイギリスで生まれました。ロンドン大学で学んだ後、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジで道徳科学(当時の心理学や哲学を含む分野)を学びました。第一次世界大戦を経て、彼はケンブリッジ大学に戻り、心理学の研究と教育に生涯を捧げることになります。
1922年にはケンブリッジ大学心理学研究室のリーダーとなり、1931年には初代の実験心理学教授に就任しました。これはイギリスで初めて設立された実験心理学の教授職であり、彼の功績がいかに大きかったかを物語っています。彼は長年にわたりケンブリッジ大学で教鞭をとり、多くの後進を育てました。彼の指導を受けた学生の中には、後に認知心理学の発展に貢献する研究者も多く含まれています。
バートレットは、その功績により1948年にナイトの称号を授与されました。彼は1969年に亡くなるまで、心理学研究の発展に尽力し続けました。
実験心理学へのアプローチ:自然な状況下での研究
バートレットの研究が画期的だった点の一つは、そのアプローチ方法にあります。当時の心理学研究、特にドイツのヘルマン・エビングハウスに代表される記憶研究では、実験室という管理された環境下で、無意味な音節リストなどを用いて記憶の正確さを測定するのが主流でした。これは、記憶の純粋なメカニズムを解明しようとする試みでした。
しかし、バートレットはこのような人工的な状況下での研究だけでは、日常生活における人間の複雑な記憶の働きを捉えることはできないと考えました。彼は、人々が普段どのように物語を記憶し、それを語り直すのか、あるいはどのように絵を見てそれを再現するのかといった、より自然で意味のある状況に関心を向けました。
彼の研究は、実験室での厳密な統制よりも、現実世界での人々の心的過程を理解することに重きを置いていました。このアプローチは、後の認知心理学や社会心理学における研究方法にも大きな影響を与えることになります。彼は、記憶が単なる情報の貯蔵庫ではなく、個人の経験や知識、文化によって常に変化し、再構築されるダイナミックなプロセスであることを見抜いていたのです。
主な業績と後世への影響
バートレットの最も重要な業績は、1932年に出版された著書『想起 (Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology)』にまとめられています。この中で、彼は「スキーマ理論」や「再構成的記憶」といった革新的な概念を提唱しました。
スキーマ理論は、人々が過去の経験に基づいて知識を体制化し、新しい情報を理解・記憶するための枠組み(スキーマ)を持っているとする考え方です。また、再構成的記憶は、記憶がビデオ録画のように正確に再生されるのではなく、思い出すたびにスキーマの影響を受けて再構築されるという考え方を示しています。
これらの理論は、発表当時はすぐには主流とはなりませんでしたが、1960年代以降の認知心理学の発展とともに再評価され、現代の記憶研究や認知科学、さらには社会心理学、教育心理学、人工知能研究など、幅広い分野に多大な影響を与え続けています。特に、人間の記憶がいかに主観的で、誤りやすく、変容しやすいものであるかを明らかにした点は、画期的な貢献と言えるでしょう。
バートレット心理学の核心:記憶のスキーマ理論
バートレット心理学を理解する上で欠かせないのが「スキーマ理論」です。これは、私たちの記憶や知識がどのように整理され、利用されているのかを説明する重要な概念です。
本章では、以下の点について詳しく見ていきます。
- スキーマとは何か?知識の枠組みを理解する
- 記憶は「再構成」される:スキーマが記憶に与える影響
- 従来の記憶研究との違い:再生ではなく再構成
スキーマとは何か?知識の枠組みを理解する
スキーマ(Schema, 複数形: Schemata)とは、過去の経験や学習を通じて形成された、特定の対象や出来事に関する知識の枠組みや構造のことを指します。簡単に言えば、私たちが世界を理解するための「心のテンプレート」のようなものです。
例えば、「レストラン」というスキーマを考えてみましょう。私たちは「レストラン」と聞くと、メニュー、テーブル、椅子、ウェイター、食事、支払いといった要素や、「席に案内される→注文する→食事をする→支払いをする」といった一連の流れを無意識のうちに思い浮かべます。これがレストランに関するスキーマです。
このスキーマがあるおかげで、私たちは初めて訪れるレストランでも、どのように振る舞えばよいか、何が起こるかをある程度予測し、スムーズに行動することができます。スキーマは、新しい情報を既存の知識と関連付け、効率的に処理・理解するのに役立つのです。スキーマは、個人の経験や文化によって異なり、常に更新され変化していくという特徴も持っています。
記憶は「再構成」される:スキーマが記憶に与える影響
バートレットは、記憶が単に過去の出来事を正確に記録・再生するプロセスではないと考えました。彼は、記憶を思い出す(想起する)際に、既存のスキーマが大きな影響を与え、元の情報が変容したり、補われたりすると主張しました。これが「再構成的記憶(Reconstructive Memory)」という考え方です。
つまり、私たちは出来事を経験したそのままの形で記憶しているのではなく、自分の持っているスキーマ(知識の枠組み)に合うように、情報を解釈し、整理し、時には無意識のうちに「編集」して記憶しているのです。そして、思い出す際には、その編集された情報に基づいて、再び物語を「再構成」します。
例えば、曖昧な情報や理解しにくい部分があると、自分のスキーマに合致するように、より論理的で分かりやすい形に情報を変えてしまったり、欠けている情報をスキーマに基づいて補ってしまったりすることがあります。これが、記憶違いや勘違いが生じる原因の一つと考えられています。バートレットは、記憶が固定的なものではなく、非常にダイナミックで創造的なプロセスであることを見出したのです。
従来の記憶研究との違い:再生ではなく再構成
バートレットのスキーマ理論と再構成的記憶の考え方は、それまでの記憶研究、特にエビングハウスの研究とは対照的でした。エビングハウスは、記憶をできるだけ純粋な形で測定しようとし、無意味な音節を用いて、どれだけ正確に「再生」できるかに焦点を当てました。これは、記憶を貯蔵庫からの情報の取り出し(再生)と捉える見方です。
一方、バートレットは、日常生活における意味のある情報(物語など)を対象とし、記憶がどのように「変容」するかに注目しました。彼は、記憶の想起が単純な再生ではなく、スキーマに基づいて積極的に情報を組み立て直す「再構成」のプロセスであると主張しました。
この「再生」から「再構成」への視点の転換は、記憶研究における大きなパラダイムシフトでした。バートレットの研究は、記憶の正確さだけでなく、記憶の質的な変化や、記憶における個人の能動的な役割を重視する、より現実の人間活動に即した記憶観を提示したのです。この考え方は、後の認知心理学における記憶モデルの発展に大きな影響を与えました。
有名な記憶実験:「幽霊の戦争」が示すもの
バートレットのスキーマ理論と再構成的記憶を裏付ける最も有名な研究が、「幽霊の戦争(The War of the Ghosts)」という北米先住民の民話を用いた記憶実験です。この実験は、記憶がいかに個人の文化や知識の影響を受けて変容するかを劇的に示しました。
本章では、以下の内容を掘り下げます。
- 実験の概要:北米先住民の物語を用いた反復再生法
- 実験結果:物語はどう変容したか?
- 実験から導かれる結論:文化やスキーマの影響
実験の概要:北米先住民の物語を用いた反復再生法
バートレットは、ケンブリッジ大学の学生たち(主にイギリス文化背景を持つ)に、「幽霊の戦争」という、彼らにとって馴染みの薄い文化背景を持つ少し奇妙で非論理的な物語を読ませました。この物語には、超自然的な要素や、西洋文化の論理とは異なる因果関係が含まれています。
実験参加者は、物語を読んだ後、一定の時間が経過してから(例えば15分後)、その物語をできるだけ正確に思い出すように求められました。さらに、バートレットは「反復再生法(Method of Repeated Reproduction)」という手法を用いました。これは、同じ参加者に、数週間後、数ヶ月後、さらには数年後といったように、繰り返し物語を思い出してもらい、その内容の変化を追跡調査する方法です。
また、「系列再生法(Method of Serial Reproduction)」という手法も用いられました。これは、一人の参加者が思い出した物語を次の参加者に伝え、その次の参加者がさらに思い出した内容を次の人へ…というように、伝言ゲームのように物語を伝えていく方法です。これにより、物語が人から人へと伝わる過程でどのように変化していくかを観察しました。
実験結果:物語はどう変容したか?
実験の結果、参加者が思い出した物語は、時間の経過とともに、また人から人へと伝わるうちに、元の物語から大きく変容していくことが明らかになりました。バートレットは、その変容にいくつかの特徴的なパターンがあることを見出しました。
短縮化:物語が短くなる傾向
最も顕著な変化の一つは、物語全体が元のバージョンよりも大幅に短くなる傾向が見られたことです。参加者にとって重要でない、あるいは理解しにくいと感じられた情報や詳細は、記憶から抜け落ちていきました。物語の核となる部分は残るものの、枝葉の部分は省略されていきました。これは、記憶容量の限界や、情報を効率的に処理しようとする心の働きが関係していると考えられます。
合理化:理解しやすいように内容が変わる
参加者は、物語の中の奇妙で非論理的な部分や、自分たちの文化や常識では理解しにくい部分を、無意識のうちに自分たちが理解しやすい、より論理的で一貫性のある内容に変えてしまう傾向がありました。例えば、超自然的な出来事をより現実的な解釈に置き換えたり、物語の因果関係を自分たちの文化の常識に合うように変更したりしました。これは、既存のスキーマに合わない情報を、スキーマに適合するように「合理化」しようとする働きによるものです。
詳細の変容:固有名詞などが一般的な言葉に
物語に含まれる馴染みのない固有名詞(人名や地名など)や、特殊な表現は、より一般的で馴染みのある言葉に置き換えられる傾向が見られました。例えば、「カヌー」が「ボート」に、「矢」が「弾丸」に変わるなど、参加者の文化背景に合わせた言葉遣いに変化していきました。また、物語の出来事の順序が変わったり、強調される点が元の物語とは異なったりすることもありました。これも、スキーマが情報の解釈や記憶の再構成に影響を与えている証拠と言えます。
実験から導かれる結論:文化やスキーマの影響
「幽霊の戦争」実験は、記憶が単なる情報のコピーではなく、個人の持つ知識、信念、文化、そしてスキーマによって積極的に解釈され、再構成されるプロセスであることを明確に示しました。参加者は、馴染みのない異文化の物語を、自分たちの文化的なスキーマに合うように変容させて記憶していたのです。
この実験から導かれる重要な結論は、記憶の想起が「過去への努力(effort after meaning)」であるということです。つまり、私たちは単に情報を思い出すだけでなく、その情報に意味を与え、自分にとって理解可能で一貫性のあるものにしようと能動的に努力しているのです。この過程で、スキーマが強力なフィルターおよび編集ツールとして機能し、結果として記憶の変容が生じます。
バートレットのこの実験とそこから得られた知見は、記憶の主観性や曖昧さ、そして文化や社会的文脈が記憶形成に与える影響の大きさを浮き彫りにし、後の心理学研究に大きな影響を与えました。
バートレットの記憶研究:再構成的記憶のメカニズム
「幽霊の戦争」実験を通して、バートレットは記憶が「再構成」されるプロセスであることを示しました。では、その再構成は具体的にどのようにして起こるのでしょうか?ここでは、バートレットが用いた研究手法と、そこから見えてきた記憶変容のメカニズム、そしてスキーマ理論の応用について掘り下げます。
本章で解説するポイントは以下の通りです。
- 反復再生法と系列再生法
- 記憶の変容パターン:なぜ記憶は変わるのか?
- スキーマ理論の応用:日常生活における記憶の歪み
反復再生法と系列再生法
バートレットは、記憶の変容プロセスを詳細に観察するために、主に二つの実験手法を用いました。
一つは「反復再生法(Method of Repeated Reproduction)」です。これは、同じ実験参加者に、時間を置いて何度も同じ情報(物語や絵など)を思い出してもらう方法です。例えば、「幽霊の戦争」を読んだ15分後、数週間後、数ヶ月後、数年後にそれぞれ思い出してもらい、その内容が時間経過とともにどのように変化していくかを記録・分析しました。これにより、個人の記憶内で長期的にどのような変容が起こるのかを捉えることができます。
もう一つは「系列再生法(Method of Serial Reproduction)」です。これは、ある参加者が思い出した内容を次の参加者に伝え、その次の参加者がさらに思い出した内容を…というように、情報を人から人へと伝達させていく方法です。伝言ゲームを想像すると分かりやすいでしょう。この方法により、情報が社会的な伝達プロセスを経てどのように歪められ、変化していくのかを観察することができます。噂話や伝説が広まる過程で内容が変わっていく現象と似ています。
これらの手法は、従来の記憶研究で主流だった、一度きりの正確な再生を求める方法とは異なり、記憶のダイナミックな変化の過程を捉えることに適していました。
記憶の変容パターン:なぜ記憶は変わるのか?
これらの実験手法を通して、バートレットは記憶の変容に一貫したパターンがあることを見出しました。前述した「短縮化」「合理化」「詳細の変容」などがその代表例です。では、なぜこのような変容が起こるのでしょうか? バートレットはその原因を「スキーマ」に求めました。
私たちは新しい情報に触れたとき、それを既存のスキーマ(知識の枠組み)に当てはめて理解しようとします。情報がスキーマにうまく適合すれば、比較的容易に記憶されます。しかし、情報がスキーマと矛盾したり、スキーマに存在しない要素を含んでいたりすると、理解や記憶が困難になります。
その結果、私たちは無意識のうちに、情報を自分のスキーマに合うように「編集」してしまうのです。
- 省略(Omission): スキーマに合わない、理解できない、重要でないと感じる情報は記憶から抜け落ちる(短縮化)。
- 合理化(Rationalization): スキーマに合うように、論理的でない部分や奇妙な部分の意味づけを変えたり、因果関係を作り変えたりする。
- 転換(Transformation): 馴染みのない言葉や概念を、より身近で理解しやすい言葉や概念に置き換える(詳細の変容)。
このように、記憶の変容は、単なる忘却ではなく、私たちが世界を理解し、意味づけようとする能動的なプロセスの一部なのです。思い出すという行為は、過去の経験を忠実に引き出すのではなく、現在のスキーマを通して過去を再解釈し、再構築する作業であると言えます。
スキーマ理論の応用:日常生活における記憶の歪み
バートレットのスキーマ理論と再構成的記憶の考え方は、実験室の中だけでなく、私たちの日常生活における様々な現象を理解する上でも非常に役立ちます。
例えば、目撃証言の信頼性の問題です。事件や事故の目撃者は、自分が経験したことを正確に記憶しているつもりでも、実際にはその場の状況や自身の感情、あるいは後の警察官からの質問の仕方などによって、記憶が無意識のうちにスキーマの影響を受け、歪められている可能性があります。特に、曖昧な状況や強い感情が伴う場合、スキーマによる補完や合理化が起こりやすくなります。
また、噂話やデマが広まる過程も、系列再生法で観察された記憶の変容と類似しています。情報が人から人へと伝わるうちに、短縮化されたり、よりセンセーショナルで分かりやすい内容に合理化されたり、細部が変化したりすることがよくあります。これも、各個人が持つスキーマを通して情報が解釈・再構成されながら伝達されていく結果と考えられます。
さらに、自伝的記憶(自分自身の過去の出来事に関する記憶)も、スキーマの影響を強く受けます。私たちは、過去の経験を現在の自己イメージや価値観に合うように解釈し直し、時には美化したり、都合よく編集したりすることがあります。これも、記憶が固定的な記録ではなく、常に再構成されるプロセスであることの表れです。
このように、バートレットの研究は、記憶がいかに主観的で、誤りやすく、社会的・文化的な影響を受けるものであるかを明らかにし、法心理学、社会心理学、臨床心理学など、様々な応用分野に示唆を与えています。
バートレット心理学の現代的意義と応用
バートレットの研究は、発表から数十年を経て再評価され、現代の心理学や関連分野に大きな影響を与え続けています。彼の先駆的なアイデアは、様々な形で発展・応用されています。
この章では、バートレット心理学が現代においてどのような意味を持ち、どのように活用されているかを見ていきましょう。
- 認知心理学への発展:スキーマ研究の継承
- 社会心理学への影響:ステレオタイプや偏見との関連
- 教育や臨床心理学への応用可能性
- バートレット理論への批判と限界
認知心理学への発展:スキーマ研究の継承
1960年代以降の「認知革命」と呼ばれる動きの中で、人間の情報処理プロセスに関心が集まると、バートレットのスキーマ理論は再び脚光を浴びることになりました。彼の考え方は、知識がどのように表現され、記憶され、思考や問題解決に利用されるのかを探る現代認知心理学の基礎の一つとなりました。
スキーマの概念は、より洗練された形で「スクリプト(特定の状況における一連の行動に関する知識)」、「フレーム(特定の対象に関する知識構造)」、「意味ネットワーク(概念間の関連性を示すモデル)」といった様々な知識表現モデルへと発展しました。これらのモデルは、コンピュータによる自然言語処理や人工知能(AI)の研究にも応用されています。AIが文脈を理解したり、推論を行ったりする上で、スキーマに類似した知識構造の考え方が不可欠なのです。
また、再構成的記憶の研究も進展し、記憶の誤り(偽りの記憶、False Memory)がどのようにして生じるのか、その神経科学的な基盤は何か、といった研究が活発に行われています。エリザベス・ロフタスらによる誘導質問が記憶に与える影響の研究などは、バートレットの研究の現代的な継承と言えるでしょう。
社会心理学への影響:ステレオタイプや偏見との関連
バートレットのスキーマ理論は、社会心理学におけるステレオタイプや偏見の形成・維持メカニズムを理解する上でも重要な示唆を与えています。ステレオタイプとは、特定の社会集団(性別、人種、職業など)に対して人々が抱く、一般化され、単純化された知識や信念の体系であり、一種の社会的スキーマと考えることができます。
私たちは、ある集団に属する個人に出会ったとき、その個人に関する具体的な情報が少なくても、その集団に関するステレオタイプ(スキーマ)を適用して、その人の性格や能力を推測してしまうことがあります。これは、情報を効率的に処理する上では役立つ側面もありますが、個人の多様性を無視し、誤った判断や差別的な行動につながる危険性もはらんでいます。
また、スキーマは、自分たちのスキーマに合致する情報には注意を向けやすく、合致しない情報は無視したり、スキーマに合うように歪めて解釈したりする傾向(確証バイアス)を生み出します。これにより、一度形成されたステレオタイプや偏見は、なかなか修正されにくいという問題も生じます。バートレットの研究は、こうした社会的な認知プロセスの基盤を理解する上で、重要な理論的枠組みを提供しています。
教育や臨床心理学への応用可能性
バートレットの理論は、教育や臨床心理学の分野にも応用されています。
教育においては、学習者が新しい知識を効果的に習得するためには、既存のスキーマ(既有知識)を活性化させ、新しい情報と関連付けることが重要であると認識されています。教師は、学習者のスキーマを理解し、それに働きかけるような教材や教授法を用いることで、より深い理解を促すことができます。例えば、新しい単元を学ぶ前に、関連する既知の事柄について質問したり、ブレインストーミングを行ったりすることは、スキーマの活性化に役立ちます。
臨床心理学においては、クライエントが持つ自己や他者、世界に対するスキーマ(認知的スキーマ)が、その人の感情や行動、精神的な問題にどのように影響しているかを理解することが重要になります。特に認知療法やスキーマ療法では、不適応的なスキーマを特定し、それをより現実的で適応的なものに変容させていくことを目指します。例えば、うつ病の人は、失敗体験を過度に一般化し、「自分は何をやってもダメだ」という否定的な自己スキーマを持っていることがありますが、セラピーを通してそのスキーマの妥当性を検証し、修正を図っていきます。
バートレット理論への批判と限界
バートレットの理論は非常に影響力がありますが、いくつかの批判や限界も指摘されています。
一つは、「スキーマ」という概念自体の曖昧さです。スキーマが具体的にどのような構造を持ち、どのように形成され、どのように機能するのかについて、バートレット自身は詳細な説明を与えませんでした。そのため、理論としての厳密さや検証可能性に欠けるという批判があります。後の研究者たちがスキーマの概念をより具体化しようと試みてきましたが、依然として定義や測定方法については議論があります。
また、バートレットの研究方法、特に「幽霊の戦争」実験における統制の甘さも指摘されます。実験参加者の選択や指示の与え方、データ分析の方法などが、現代の実験心理学の水準から見ると、やや主観的で標準化されていない側面があります。そのため、結果の解釈に研究者のバイアスが入る可能性が否定できません。
さらに、バートレットは記憶の変容や再構成の側面に焦点を当てましたが、記憶の正確さや保持の側面をやや軽視しているのではないかという意見もあります。私たちは多くの情報を比較的正確に長期間記憶することも可能です。記憶の変容と保持の両方の側面をバランスよく説明する統合的な理論が求められています。
これらの批判や限界はあるものの、バートレットが提示した「スキーマ」や「再構成的記憶」といった概念の重要性は揺らぐものではなく、彼の研究が現代心理学の発展に与えた貢献は計り知れません。
よくある質問
バートレットのスキーマ理論とは具体的に何ですか?
バートレットのスキーマ理論とは、私たちが過去の経験に基づいて知識を整理し、新しい情報を理解・記憶するための「心の枠組み(スキーマ)」を持っているとする考え方です。例えば、「犬」のスキーマには、「四本足」「吠える」「尻尾を振る」といった知識が含まれます。このスキーマがあることで、新しい犬を見てもすぐにそれが犬だと認識できます。バートレットは、このスキーマが記憶を思い出す際にも影響を与え、元の情報がスキーマに合わせて変化する(再構成される)と考えました。
「幽霊の戦争」実験の目的は何でしたか?
「幽霊の戦争」実験の主な目的は、記憶が単なる情報の正確なコピーではなく、個人の文化や既存の知識(スキーマ)の影響を受けて、どのように変容していくかを調べることでした。特に、馴染みのない異文化の物語を、西洋文化の背景を持つ参加者がどのように記憶し、語り直すかを観察することで、記憶の「再構成」プロセスとスキーマの役割を明らかにしようとしました。
バートレットの記憶研究は現代の心理学にどう影響していますか?
バートレットの記憶研究、特にスキーマ理論と再構成的記憶の概念は、現代の認知心理学、社会心理学、教育心理学、臨床心理学、さらには人工知能研究など幅広い分野に影響を与えています。記憶が主観的で誤りやすく、スキーマによって歪められる可能性があるという視点は、目撃証言の信頼性、ステレオタイプや偏見の形成、学習プロセス、心理療法の理論などの基礎となっています。
再構成的記憶とはどういう意味ですか?
再構成的記憶とは、記憶を思い出す(想起する)プロセスが、保存された情報をそのまま取り出すのではなく、既存の知識やスキーマ、現在の状況などに基づいて、元の情報を能動的に組み立て直す(再構成する)作業であるという考え方です。これにより、記憶は思い出すたびに少しずつ変化したり、欠けている部分が補われたり、スキーマに合うように合理化されたりすることがあります。
バートレットの研究で使われた他の実験方法はありますか?
「幽霊の戦争」で用いられた反復再生法や系列再生法の他にも、バートレットは様々な手法を用いました。例えば、「絵画の再生」実験では、参加者に簡単な線画を見せ、それを記憶に基づいて繰り返し描いてもらいました。その結果、元の絵が徐々に単純化されたり、参加者にとって意味のある形(例:フクロウの絵が猫の絵に変わるなど)に変容したりする傾向が見られました。これもスキーマの影響を示すものと考えられています。
スキーマはどのように形成されるのですか?
スキーマは、主に個人の直接的な経験や、他者からの情報(教育、読書、メディアなど)を通じて形成されます。特定の対象や出来事に繰り返し触れる中で、共通する特徴やパターンが抽出され、知識として体制化されていきます。例えば、何度もレストランに行く経験を通して、「レストラン」スキーマが形成・洗練されていきます。スキーマは固定的なものではなく、新しい経験や学習によって常に更新され、変化していく可能性があります。
バートレットの主な著書は何ですか?
フレデリック・バートレットの最も重要で有名な著書は、1932年に出版された『想起 (Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology)』です。この本の中で、彼はスキーマ理論や再構成的記憶の概念を提唱し、「幽霊の戦争」実験などの研究成果を詳細に報告しています。この他にも、思考に関する『思考:実験的および社会的研究 (Thinking: An Experimental and Social Study)』(1958年) などの著作があります。
まとめ
- フレデリック・バートレットはイギリスの著名な心理学者。
- ケンブリッジ大学で初代実験心理学教授を務めた。
- 自然な状況下での記憶研究を重視した。
- 代表的な著書は『想起 (Remembering)』(1932)。
- 「スキーマ理論」を提唱したことで知られる。
- スキーマは知識や経験に基づく心の枠組み。
- 記憶はスキーマの影響で「再構成」されると考えた。
- 有名な実験に「幽霊の戦争」がある。
- 「幽霊の戦争」は異文化の物語を用いた記憶実験。
- 実験では反復再生法や系列再生法が用いられた。
- 記憶の変容には短縮化、合理化、詳細の変化が見られた。
- 記憶の想起は「過去への努力」であるとした。
- バートレット理論は認知心理学や社会心理学に影響を与えた。
- ステレオタイプや偏見の理解にもスキーマ理論は有用。
- 教育や臨床心理学にも応用されている。