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種田山頭火の死因は脳溢血と心臓麻痺!漂泊の俳人が辿り着いた最期と生涯

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種田山頭火の死因は脳溢血と心臓麻痺!漂泊の俳人が辿り着いた最期と生涯
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自由律俳句の代表的な俳人として知られる種田山頭火は、波乱に満ちた生涯を送りました。彼の俳句は多くの人々に感動を与え続けていますが、その最期についてはご存知でしょうか。本記事では、種田山頭火の死因と、それに至るまでの壮絶な人生、そして彼が辿り着いた終焉の地での日々を詳しく解説します。

目次

種田山頭火の死因は脳溢血心臓麻痺だった

種田山頭火の死因は脳溢血心臓麻痺だった

種田山頭火は、1940年(昭和15年)10月11日未明、愛媛県松山市にある「一草庵」でその生涯を閉じました。彼の死因は、脳溢血による心臓麻痺でした。

句会中に訪れた突然の最期

山頭火が亡くなる前夜、一草庵では句会が開かれていました。彼は隣室でいびきをかいて眠りこけていると思われていましたが、実際にはすでに脳溢血で倒れていたのです。 句会が終わった後、仲間たちは山頭火を起こさないように帰宅しましたが、虫の知らせを感じた一人が早朝に戻ってみると、彼はすでに心臓麻痺で他界していました。

享年57歳でした。

享年57歳、「コロリ往生」の願い

山頭火は生前、「コロリ往生」を願っていたと言われています。 「コロリ往生」とは、苦しむことなく安らかに死を迎えることを指し、彼の最期はまさにその願いが叶った形となりました。 彼の波乱に満ちた人生を考えると、この穏やかな最期は、ある種の救いだったのかもしれません。


波乱に満ちた種田山頭火の生涯

波乱に満ちた種田山頭火の生涯

種田山頭火(本名:種田正一)は、1882年(明治15年)12月3日に山口県佐波郡(現在の防府市)の大地主の長男として生まれました。 しかし、その人生は幼少期から苦難の連続でした。

幼少期の悲劇:母の自殺が残した深い影

山頭火が10歳(数え11歳)の時、母フサが自宅の井戸に投身自殺するという悲劇に見舞われます。 彼は井戸から引き上げられた母の遺体を目の当たりにし、この出来事が彼の心に生涯消えない深い傷を残しました。 晩年の日記にも、この母の死に対する痛切な思いが綴られています。

早稲田大学中退と家業の破産

学業は優秀で、旧制山口中学校を首席で卒業後、早稲田大学文学科に入学します。 しかし、神経衰弱のためわずか2年で中退し、郷里に戻りました。 その後、父とともに酒造業を営むものの、父の放蕩と自身の酒癖が原因で家業は破産し、一家は離散してしまいます。 さらに、弟も借金苦から自殺するという、立て続けに不幸が襲う人生でした。

酒に溺れ、出家へと至る道

相次ぐ不幸と生活苦の中で、山頭火は酒に溺れるようになります。泥酔して市電を急停車させる事件を起こし、これが自殺未遂とも言われています。 この事件をきっかけに、彼は熊本の曹洞宗報恩寺の住職に助けられ、1925年(大正14年)に出家得度し、「耕畝(こうほ)」と改名しました。 これが、彼の漂泊の人生の始まりとなります。

漂泊の旅と自由律俳句の確立

出家後、山頭火は一笠一杖一鉢の雲水姿で、西日本を中心に北海道を除くほぼ全国を行乞(托鉢)して歩きました。 この放浪の旅の中で、彼は季語や五・七・五の定型にとらわれない自由律俳句を数多く詠み、その独自の作風を確立しました。 彼の俳句は、旅の中で感じた自然や心情をありのままに表現し、多くの人々の心を捉えています。

晩年の山頭火:終焉の地「一草庵」での日々

晩年の山頭火:終焉の地「一草庵」での日々

長年にわたる行乞の旅の後、山頭火は人生の終着点として愛媛県松山市を選びました。この地で彼は「一草庵」と名付けた小さな庵を結び、最期の時を過ごします。

松山「一草庵」での安住

1939年(昭和14年)12月、山頭火は友人の好意により松山市御幸寺境内に庵住し、そこを「一草庵」と名付けました。 彼はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだと言われています。 漂泊の果てにたどり着いたこの地で、山頭火は心の安寧を見出そうとしていました。

最期まで酒と句作に生きた日々

一草庵での生活は、彼にとって穏やかなものでしたが、酒と句作は最期まで彼の人生から切り離せないものでした。 彼は「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語るほど、酒と俳句を一体のものとして捉えていました。 晩年の日記には、酒への葛藤や、それでもなお酒を求める自身の姿が率直に綴られています。

辞世の句に込められた想い

山頭火の辞世の句としては「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」が有名です。 この句は、彼が亡くなる直前に発表された俳句雑誌『層雲』に掲載された最後の句であるため、辞世の句とされています。 しかし、実際には日記にはそれ以降に詠まれた句もいくつか残されており、彼の最期まで尽きることのない創作意欲がうかがえます。

「おちついて死ねさうな草枯るる」という句も、終焉の地で詠まれた彼の心境を表すものとして知られています。

種田山頭火の健康状態と酒癖

種田山頭火の健康状態と酒癖

山頭火の波乱の生涯は、彼の健康状態や酒癖と深く結びついていました。彼は肉体的、精神的な病に苦しみながらも、酒と俳句を心の支えとして生きていました。

神経衰弱とアルコール依存症

山頭火は若い頃から神経衰弱を患い、早稲田大学を中退する原因にもなりました。 また、彼の人生を語る上で欠かせないのが、重度のアルコール依存症です。 彼は酒によって数々の失敗を繰り返し、それが彼の放浪生活の一因ともなりました。 酒は彼にとって創作の源であると同時に、苦悩の原因でもあったのです。

日記に見る酒への葛藤

山頭火の日記には、酒に対する彼の複雑な感情が克明に記されています。酒を慎むべきだと自戒しながらも、結局は酒に手を伸ばしてしまう自身の弱さを正直に吐露しています。 「アルコールがなくては私の生活はあまりにさびしい」 と記すように、酒は彼にとって孤独を癒す唯一の手段でもありました。

「新緑病」や「煙霞僻」と呼ばれた病

山頭火の精神状態については、現代の視点から「新緑病」や「煙霞僻」といった言葉で表現されることもあります。 これらは、彼の繊細な感受性や生きづらさを表すもので、アルコール依存症や神経衰弱と相まって、彼の人生に大きな影響を与えました。 彼は自身の精神状態が落ち込むことを自覚し、手紙などでその苦悩を伝えていました。

よくある質問

よくある質問

種田山頭火の俳句の特徴は何ですか?

種田山頭火の俳句は、五・七・五の定型や季語にとらわれない「自由律俳句」であることが最大の特徴です。 彼は自身の感情や体験、旅の情景をありのままに、そして口語に近い自然なリズムで表現しました。 その句は、読む人の心に直接語りかけるような力強さと、深い哀愁を帯びています。

種田山頭火の代表的な句にはどのようなものがありますか?

種田山頭火の代表的な句は数多くありますが、特に有名なものとしては以下の句が挙げられます。

  • 分け入っても分け入っても青い山
  • まっすぐな道でさみしい
  • ほろほろ酔うて木の葉ふる
  • 鉄鉢の中へも霰
  • あたたかく人も空も

これらの句は、彼の漂泊の人生や内面の葛藤、自然への深い眼差しをよく表しています。

種田山頭火はなぜ放浪の旅に出たのですか?

山頭火が放浪の旅に出た背景には、幼少期の母の自殺、家業の破産、弟の自殺、離婚といった相次ぐ人生の苦難があります。 特に、泥酔して市電を止める事件をきっかけに出家したことが、行乞流転の旅に出る直接的な契機となりました。 彼は「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」 と語り、旅の中に自身の生きる意味や句作の道を見出そうとしました。

種田山頭火と尾崎放哉の関係は?

種田山頭火と尾崎放哉は、ともに自由律俳句の代表的な俳人であり、同じ荻原井泉水門下でした。 二人はしばしば比較されることが多く、放哉が小島にこもり孤絶の生活を選んだのに対し、山頭火は生涯を通じて人との関わりを閉ざさず、行乞の旅を続けた点で対照的です。 山頭火は放哉の作品世界に共感し、彼の死後、句作への思いを一層高めて旅に出たとも言われています。

種田山頭火の墓はどこにありますか?

種田山頭火の墓は、彼の生地である山口県防府市の護国寺にあります。 ここには母フサの墓と並んで「俳人種田山頭火之墓」と彫られた墓石があります。 また、元妻が住んだ熊本市の安国禅寺にも分骨墓があります。 護国寺の本堂では、山頭火の自筆句や愛用品が無料で公開されています。

まとめ

  • 種田山頭火の死因は脳溢血による心臓麻痺でした。
  • 1940年10月11日未明、愛媛県松山市の一草庵で亡くなりました。
  • 享年57歳で、本人が願った「コロリ往生」でした。
  • 幼少期の母の自殺が彼の人生に深い影響を与えました。
  • 早稲田大学を神経衰弱で中退し、家業の酒造業も破産しました。
  • 酒癖が悪く、泥酔事件をきっかけに出家しました。
  • 出家後は「耕畝」と改名し、行乞の旅を続けました。
  • 季語や定型にとらわれない自由律俳句を確立しました。
  • 晩年は松山の一草庵で過ごし、最期まで酒と句作に生きました。
  • 辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」とされています。
  • 神経衰弱やアルコール依存症に苦しんだ生涯でした。
  • 酒は彼にとって創作の源であり、孤独を癒すものでもありました。
  • 彼の墓は山口県防府市の護国寺にあります。
  • 生涯で8万4千句もの作品を残したと言われています。
  • 「無駄に無駄を重ねたような一生だった」と晩年に振り返っています。
種田山頭火の死因は脳溢血と心臓麻痺!漂泊の俳人が辿り着いた最期と生涯

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