古代日本の税制「租庸調」について、「いつから始まったの?」「どんな仕組みだったの?」と疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。この税制は、日本の歴史を語る上で欠かせない重要な要素です。
本記事では、租庸調が導入された背景から、それぞれの税の内容、そしてその後の変遷までをわかりやすく解説します。当時の人々の暮らしに思いを馳せながら、日本の税の歴史を一緒に紐解いていきましょう。
租庸調はいつから始まった?律令制の税の導入時期

租庸調は、日本の律令制において確立された主要な税制度です。その導入は、中央集権国家を目指す国家体制の大きな転換期と深く関わっています。具体的には、大化の改新を経て、大宝律令によってその仕組みが整えられました。
この税制は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて施行され、当時の国家財政を支える重要な柱となりました。
大化の改新と公地公民の原則
租庸調の基礎が築かれたのは、645年に起こった大化の改新です。
この改革では、それまでの豪族による土地・人民支配を改め、全ての土地と人民は天皇のものとする「公地公民」の原則が打ち出されました。
これにより、国家が直接人民から税を徴収する体制の基盤が作られたのです。大化の改新の詔では、旧来の賦役を廃止し、田地に応じた税制への改定が示されており、これが後の田租の前身と考えられています。
大宝律令による租庸調の確立
大化の改新で示された税制の方向性は、701年に完成した大宝律令によって、より具体的な制度として確立されました。
大宝律令に盛り込まれた賦役令(ぶやくりょう)には、租・庸・調の三種類の税が詳細に規定されています。
この律令の制定により、租庸調は奈良時代の税制度として一般化し、平安時代に入ってからもその仕組みはしばらく維持されました。
租庸調とは?それぞれの税の内容をわかりやすく解説

租庸調は、それぞれ異なる性質を持つ三つの税から成り立っていました。当時の農民(主に成人男性)は、これらの税を物や労働で納める必要があり、その負担は決して軽いものではありませんでした。
ここでは、それぞれの税が具体的にどのようなものだったのかを詳しく見ていきましょう。
収穫物の一部を納める「租」
「租(そ)」は、班田収授法によって国家から支給された口分田(くぶんでん)の収穫物、主に稲(米)を納める税です。 収穫量の約3%から10%程度が基準とされ、口分田1段につき2束2把と定められていました。
この租は、地方の役所である国衙(こくが)に納められ、災害時の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが、各国の主要な財源として使われました。
地方の特産物を納める「調」
「調(ちょう)」は、地方の特産品や布(絹・麻布)を中央政府(都)に納める税です。 正丁(せいてい:21歳から60歳の男性)や中男(ちゅうなん:17歳から20歳の男性)に課せられ、人頭税としての性質を持っていました。
地域によって納める品目は異なり、絹や麻布が基本でしたが、鉄、塩、漆などの特産品や、場合によっては貨幣(調銭)での納付も認められていました。
労役の代わりに納める「庸」
「庸(よう)」は、本来は都での労役(年間10日間)を課される税でしたが、実際には労役の代わりに布(絹・麻布)や米などを納めることが多くありました。 これは、都までの移動が遠方の人々にとって大きな負担だったためです。
庸もまた正丁や次丁(じちょう:61歳以上の男性)に課せられ、中央政府の財源となりました。 都や畿内(きない)の住民は、都の工事などに徴用されることが多かったため、庸の納付が免除されるケースもありました。
租庸調が導入された背景と目的

租庸調が導入された背景には、当時の日本が目指していた国家のあり方と、そのための財源確保という明確な目的がありました。中国の律令制をモデルとしながらも、日本の実情に合わせて調整された税制だったのです。
この税制は、律令国家の運営を支える上で不可欠な要素でした。
中央集権国家を目指す律令国家の財源
大化の改新以降、日本は天皇を中心とした中央集権国家の確立を目指していました。 そのためには、国家を運営するための安定した財源が不可欠です。
租庸調は、この新しい国家体制を支えるための主要な財源として導入されました。 徴収された税は、官人の給与、軍事費、都の建設、公共事業などに充てられ、律令国家の基盤を築く上で重要な役割を果たしました。
班田収授法と口分田
租庸調の導入と密接に関わっていたのが、「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」です。 これは、公地公民の原則に基づき、国家が人民に口分田(耕作する土地)を貸し与え、その代わりに税を納めさせる制度でした。
口分田の班給は戸籍に基づいて行われ、この戸籍が税を徴収する上での基礎となりました。 班田収授法と租庸調は一体となって、律令国家の土地制度と税制を形成していたのです。
租庸調の負担と農民の生活

租庸調は律令国家の財政を支える重要な制度でしたが、当時の農民にとっては非常に重い負担でした。特に、物納や労役を伴う税は、彼らの生活に大きな影響を与えました。
この過酷な負担が、後の律令体制の変質にもつながっていきます。
過酷な税負担と逃亡・浮浪の増加
租庸調の負担は、農民の生活を圧迫しました。例えば、租は収穫量に関わらず一定量を納める必要があったため、凶作の年には特に大きな負担となりました。 また、庸や調を都まで運ぶ「運脚(うんきゃく)」の義務も、食料の支給がない中で遠距離を移動する過酷な労役であり、途中で餓死する者もいたと伝えられています。
このような重い負担に耐えかねて、戸籍から逃れ、別の土地へ移り住む「浮浪(ふろう)」や「逃亡(とうぼう)」する農民が増加しました。 戸籍に基づく税制であった租庸調は、逃亡者が増えることで徴税が困難になり、制度の維持が難しくなっていったのです。
雑徭や出挙など他の税との関係
租庸調の他にも、農民には様々な負担が課されていました。代表的なものに「雑徭(ぞうよう)」があります。 雑徭は、国司の命令で年間60日以内、地方で土木工事や国府の雑用などに奉仕する労役でした。
また、国家が春に種籾を貸し付け、秋の収穫時に高い利息とともに徴収する「出挙(すいこ)」も、農民にとって大きな負担でした。 これらの税や労役が重なり、農民の生活は一層苦しいものとなっていきました。
租庸調はいつまで続いた?その変遷と廃止

律令国家の根幹を支えた租庸調ですが、その仕組みは永遠に続いたわけではありません。農民の負担増大や社会情勢の変化に伴い、徐々に形骸化し、新たな税制へと移行していきました。
その変遷の大きなきっかけとなったのが、墾田永年私財法と荘園の発展です。
墾田永年私財法の影響と荘園の発展
743年に制定された「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」は、新しく開墾した土地の私有を永久に認める法律でした。 この法律により、貴族や寺社が大土地を所有する「荘園(しょうえん)」が各地で発展していくことになります。
荘園は、国家の税制から免除される特権を持つことが多く、農民は国家に税を納める代わりに、荘園領主に年貢などを納めるようになりました。 これにより、租庸調の徴税対象となる土地や人民が減少し、律令国家の税収は次第に減少していきました。
律令体制の崩壊と新たな税制への移行
9世紀頃になると、農民の逃亡や荘園の発展により、租庸調は機能しなくなり、律令体制そのものが崩壊へと向かいます。 租庸調に代わって、地方の領主が農民から直接税を徴収する仕組みが広がり、官物(かんもつ)や臨時雑役(りんじぞうやく)といった新しい税制が導入されていきました。
特に、780年には「両税制(りょうぜいせい)」が導入され、租庸調は実態を失い廃止されました。 これは、土地の面積に応じて税を課す地税へと移行する大きな転換点となりました。
よくある質問

租庸調について、多くの方が抱く疑問にお答えします。
租庸調は誰が納めていましたか?
租庸調は、主に全国の農民、特に成人男性(正丁、次丁、中男)に課せられました。 女性には課税されませんでした。 皇親や八位以上の役人は無税、平城京や畿内に住む庶民には調・庸の免除があったとされています。
租庸調が廃止されたのはいつですか?
租庸調は、8世紀後半になると農民の負担増や逃亡により実態を失い、780年に導入された両税制(りょうぜいせい)によって廃止されました。
租庸調の「調」と「庸」の違いは何ですか?
「調」は地方の特産品や布を中央政府に納める税であり、主に物納でした。 一方、「庸」は都での労役が原則でしたが、代わりに布や米などを納めることができた税です。 つまり、調は「物」、庸は「労役の代わり」という違いがあります。
租庸調の他にどのような税がありましたか?
租庸調の他に、農民には「雑徭(ぞうよう)」や「出挙(すいこ)」などの税や労役が課せられていました。 雑徭は地方での労役、出挙は国家からの貸し付けに対する利息です。 また、兵役も農民の負担の一つでした。
租庸調は現代の税制とどう違いますか?
租庸調と現代の税制には、いくつかの共通点と大きな違いがあります。共通点としては、「租」が所得税や固定資産税に、「庸」が勤労奉仕と税金の組み合わせに、「調」が消費税や地方税に近い構造を持つ点が挙げられます。
しかし、最大の違いは、租庸調が現物納付(米、布、特産品など)が基本であったのに対し、現代の税は基本的に貨幣で支払う点です。 また、租庸調が一律の負担であったのに対し、現代は累進課税が導入され、より公平な仕組みになっています。
まとめ
- 租庸調は、日本の律令制における主要な税制度だった。
- 導入時期は、大化の改新(645年)後に基礎が築かれ、大宝律令(701年)で確立された。
- 「租」は口分田の収穫物(米)を国衙に納める税だった。
- 「調」は地方の特産品や布を中央政府に納める税だった。
- 「庸」は都での労役の代わりに布や米などを納める税だった。
- 租庸調は、天皇を中心とする中央集権国家の財源確保が目的だった。
- 班田収授法と公地公民の原則が租庸調の基盤となった。
- 農民にとって租庸調の負担は非常に重く、逃亡や浮浪が増加した。
- 雑徭や出挙など、他の税や労役も農民に課せられた。
- 墾田永年私財法(743年)の制定が、租庸調の変遷のきっかけとなった。
- 荘園の発展により、租庸調の徴税対象が減少した。
- 律令体制の崩壊とともに、租庸調は機能しなくなった。
- 780年に導入された両税制によって、租庸調は廃止された。
- 租庸調は主に成人男性が納め、女性は課税対象外だった。
- 現代の税制とは、現物納付か貨幣納付かという点で大きく異なる。
