鎖国の理由は3つ!キリスト教禁止、幕府の支配強化、貿易独占をわかりやすく解説

当ページのリンクには広告が含まれています。
鎖国の理由は3つ!キリスト教禁止、幕府の支配強化、貿易独占をわかりやすく解説
  • URLをコピーしました!

「日本の歴史で習った『鎖国』って、一体なんのために行われたの?」
「国を閉ざすなんて、なんだかすごい決断だよね。よっぽどの理由があったのかな?」

日本の歴史を語る上で欠かせない江戸時代の「鎖国」。約200年もの間、日本が海外との交流を厳しく制限したこの政策について、多くの方がこのような疑問を抱いているのではないでしょうか。複雑そうに見える歴史も、ポイントを押さえれば驚くほどスッキリと理解できます。

本記事では、江戸幕府が鎖国に踏み切った3つの大きな理由を、誰にでも分かるように丁寧に解説していきます。歴史が苦手な方でも、この記事を読み終える頃には「なるほど!」と膝を打つこと間違いなしです。さあ、一緒に鎖国の謎を解き明かしていきましょう。

目次

そもそも「鎖国」とは?本当に国を閉ざしていたの?

そもそも「鎖国」とは?本当に国を閉ざしていたの?

「鎖国」と聞くと、日本が完全に国を閉ざし、外国との交流を一切断絶した状態をイメージするかもしれません。しかし、実際は少し違いました。この章では、一般的に誤解されがちな「鎖国」の本当の意味と、その実態について掘り下げていきます。

「鎖国」という言葉は後から生まれた

驚くべきことに、「鎖国」という言葉は、江戸時代当時使われていたわけではありません。 この言葉が生まれたのは、江戸時代も後期に入った1801年のこと。長崎のオランダ通詞(通訳)であった志筑忠雄(しづき ただお)が、ドイツ人医師ケンペルの著書『日本誌』の一部を翻訳した際に、『鎖国論』と名付けたのが始まりです。

つまり、幕府が「これから鎖国をします!」と宣言したわけではなく、後世の人々が、江戸幕府の一連の対外政策を指して「鎖国」と呼ぶようになったのです。 当時の幕府は、この政策を「海禁(かいきん)」や「御法度」と呼んでいました。 この事実だけでも、私たちが抱く「鎖国」のイメージが少し変わってくるのではないでしょうか。

四つの口(長崎、対馬、薩摩、松前)は開かれていた

「鎖国」は、完全に国を閉ざしたわけではありませんでした。幕府は「四つの口」と呼ばれる特定の窓口を通じて、限定的ながらも海外との交流を続けていたのです。 これは、幕府が国際情勢を把握し、必要な物資を輸入するための重要なルートでした。

  • 長崎口:幕府の直轄地として、オランダ中国(清)との貿易が許可されていました。 特にオランダ商館は出島に移され、厳しく管理されていました。
  • 対馬口:対馬藩を介して、朝鮮との外交・貿易が行われました。
  • 薩摩口:薩摩藩を介して、琉球王国(現在の沖縄)との交流がありました。
  • 松前口:松前藩を介して、北海道のアイヌ民族との交易が行われていました。

このように、幕府は全ての扉を閉ざしたのではなく、管理可能な範囲で人、物、情報の出入りをコントロールしていたのです。 これが「鎖国」の本当の姿でした。

鎖国の目的は「幕府による人・物・情報の統制」

では、なぜ幕府はこのような限定的な交流体制を敷いたのでしょうか。その根本的な目的は、「幕府による人・物・情報の徹底的な統制」にありました。

江戸幕府が成立して間もない頃、国内の支配体制はまだ盤石ではありませんでした。西日本の大名などが海外との自由な貿易によって富を蓄え、強力な武力を手に入れることは、幕府にとって大きな脅威でした。 また、海外から入ってくる新しい思想、特にキリスト教は、幕府の支配体制の根幹を揺るがしかねない危険なものと見なされていました。

そこで幕府は、貿易の利益を独占し、危険な思想の流入を防ぎ、国内の安定を維持するために、海外との窓口を自らの管理下に置く必要があったのです。 これこそが、後に「鎖国」と呼ばれる一連の政策の核心でした。


専門家が解説!鎖国に踏み切った3つの大きな理由

専門家が解説!鎖国に踏み切った3つの大きな理由

江戸幕府が約200年にもわたる「鎖国」体制を築いた背景には、複雑に絡み合った複数の要因がありました。しかし、その根幹にある理由は大きく3つに集約することができます。この章では、鎖国へと至った決定的な3つの理由を、歴史的背景と共に詳しく解説していきます。

理由①:キリスト教の禁止と国内の安定

鎖国に至る最も大きな理由の一つが、キリスト教の禁止です。 16世紀半ばに日本に伝わったキリスト教は、当初は貿易とセットで容認されていましたが、次第に幕府にとって看過できない存在となっていきました。

なぜ幕府はキリスト教をそれほどまでに恐れたのでしょうか。その理由は、キリスト教の教えそのものにありました。「神の前では誰もが平等である」という教えは、士農工商という厳格な身分制度を基本とする幕府の封建的な支配体制と相容れないものでした。 信者が将軍や大名よりも神に忠誠を誓うことは、幕府の権威を根本から揺るがす危険性をはらんでいたのです。

さらに、スペインやポルトガルといったカトリック国が、布教を隠れ蓑にしてアジア諸国を植民地化しているという情報も、幕府の警戒感を強めました。 実際に、キリシタン大名が領地を教会に寄進するような動きも見られ、幕府は日本の植民地化への強い危機感を抱くようになります。

そして、その懸念を決定的なものにしたのが、1637年に起こった「島原・天草一揆(島原の乱)」です。 これは、厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧に苦しんだ農民たちが起こした大規模な反乱でした。 幕府はこの一揆の鎮圧に多大な労力を費やし、キリスト教徒の強い結束力と反抗心を目の当たりにします。この事件をきっかけに、幕府はキリスト教の根絶と、その流入源であるポルトガルとの関係断絶へと大きく舵を切ることになるのです。

理由②:幕府による全国支配体制の強化

第二の理由は、幕府による全国支配体制の強化、特に外様大名の統制です。 関ヶ原の戦いを経て成立した江戸幕府ですが、特に西日本には、かつて豊臣方であった有力な外様大名が多く存在しました。

これらの大名が、幕府の許可なく海外と自由に貿易を行うとどうなるでしょうか。彼らは莫大な富を蓄え、その資金で武器を揃え、軍事力を強化することが可能になります。 これは、幕府の安定にとって非常に大きな脅威でした。幕府は、大名、特に外様大名が力をつけ、幕府に反旗を翻すことを何よりも恐れていたのです。

そこで幕府は、貿易を長崎の出島などに限定し、自らの厳格な管理下に置くことで、富と情報が特定の大名に集中することを防ごうとしました。 貿易の窓口を幕府が独占することは、日本の唯一の公的な対外窓口であることを内外に示すことにも繋がり、将軍の権威を高める効果もありました。つまり、鎖国政策は、国内の政治的安定を維持し、幕藩体制を盤石にするための重要な手段だったのです。

理由③:貿易利益の独占

三つ目の理由は、より直接的な経済的要因、すなわち貿易利益の独占です。 海外貿易が莫大な利益を生むことは、戦国時代から知られていました。幕府は、この「おいしい」利益を他の大名に渡すことなく、自らの財源として確保したいと考えたのです。

幕府は、貿易港を長崎に集約し、糸割符制度(いとわっぷせいど)などで輸入品の価格をコントロールするなど、様々な方法で貿易を管理しました。 これにより、海外から入る生糸や薬などの貴重な品々の流通を掌握し、その利益を独占することに成功します。

また、当時日本は世界有数の銀の産出国でしたが、自由な貿易によって貴重な金銀が大量に海外へ流出することも懸念されていました。 貿易を管理下に置くことで、こうした国内の富の流出を防ぐという狙いもありました。 このように、鎖国は幕府の財政基盤を安定させ、経済的な支配力を強化するための極めて合理的な政策でもあったのです。

鎖国が日本に与えたメリット・デメリット

鎖国が日本に与えたメリット・デメリット

約2世紀にわたって続いた鎖国政策は、日本の社会や文化に光と影、両方の側面をもたらしました。海外からの影響が限定的だったからこそ育まれたものもあれば、世界の大きな変化から取り残されてしまったものもあります。ここでは、鎖国が日本に与えたメリットとデメリットを具体的に見ていきましょう。

鎖国のメリット

鎖国には、いくつかの重要なメリットがありました。これらは、江戸時代の長期的な平和と安定に大きく貢献したと考えられています。

  1. 国内の平和と安定の維持

    鎖国の最大のメリットは、約200年以上にわたる平和な時代の実現です。 キリスト教の禁止や貿易の管理によって、宗教的な対立や、大名が力をつけて幕府に反乱を起こすといった内乱の火種を未然に防ぐことができました。戦乱の世が続いた戦国時代とは対照的に、江戸時代は非常に安定した社会が続いたのです。
  2. 独自の文化の醸成

    海外からの文化の流入が制限されたことで、日本国内では独自の文化が花開きました。 例えば、浮世絵、歌舞伎、俳諧、浄瑠璃といった、今や世界に誇る日本の伝統文化の多くは、この鎖国時代に庶民の間で育まれ、洗練されていったものです。外部からの影響が少ない環境だったからこそ、日本ならではの美意識や価値観が凝縮された文化が生まれたと言えるでしょう。
  3. 植民地化の回避

    17世紀から19世紀にかけて、欧米列強はアジアやアフリカの各地に進出し、次々と植民地化していきました。日本がこの植民地化の波に飲まれなかったのは、鎖国政策によって欧米諸国との接触を巧みに制限していたことが大きな要因の一つと考えられています。 幕府が早い段階でキリスト教や海外勢力の潜在的な危険性を察知し、国を閉ざすという決断をしたことが、結果的に日本の独立を守ることに繋がったのです。

鎖国のデメリット

一方で、鎖国には無視できないデメリットも存在しました。特に、世界の大きな変化から取り残されたことは、幕末から明治にかけての日本に大きな課題を突きつけることになります。

  1. 海外の技術や情報からの遅れ

    鎖国の最大のデメリットは、世界の科学技術の進歩から取り残されてしまったことです。 ヨーロッパではこの時期、産業革命が起こり、蒸気機関などの新しい技術が次々と生まれていました。しかし、限定的な交流しか持たなかった日本には、こうした情報がほとんど入ってきませんでした。 その結果、幕末にペリーの黒船が来航した際、日本はその圧倒的な技術力の差に衝撃を受けることになります。
  2. 国際情勢への疎さ

    オランダ風説書などを通じて、ある程度の海外情報は得ていたものの、やはり世界のダイナミックな政治・経済の動きを肌で感じる機会はありませんでした。 そのため、国際法や外交交渉の常識といったものに疎く、幕末に欧米列強と不平等条約を結ばされる一因になったとも言われています。
  3. 開国後の混乱

    長期間にわたる鎖国の後、急激に開国したことで、国内の経済や社会は大きな混乱に見舞われました。安い海外製品の流入によって国内の産業が打撃を受けたり、金の流出によって物価が急騰したりするなど、多くの問題が発生しました。この混乱が、結果的に江戸幕府の終焉を早めることにも繋がっていきます。

鎖国に関するよくある質問

鎖国に関するよくある質問

鎖国はいつからいつまで続いたのですか?

一般的に、鎖国は1639年にポルトガル船の来航を禁止した時点をもって「完成」したとされています。 そして、1854年に日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(函館)の2港を開港したことで終わりを告げました。 したがって、鎖国は約215年間にわたって続いたことになります。

なぜオランダだけは貿易が許されたのですか?

オランダが貿易を許された最大の理由は、キリスト教の布教を目的としていなかったからです。 スペインやポルトガルといったカトリック国が貿易と布教を一体として行っていたのに対し、プロテスタント国であるオランダは純粋な商業活動に徹する姿勢を見せました。幕府にとって最も警戒すべきはキリスト教の浸透であったため、布教の意図がないオランダは貿易相手として認められたのです。また、島原の乱の際に幕府に協力したことも、信頼を得る一因となりました。

鎖国中、海外の情報はどうやって手に入れていたのですか?

鎖国中も、海外の情報が全く入ってこなかったわけではありません。主な情報源は、長崎の出島にあったオランダ商館でした。オランダ商館長(カピタン)は、毎年江戸に参府する際に、「オランダ風説書(ふうせつがき)」を幕府に提出することが義務付けられていました。 これには、ヨーロッパの情勢や各国の動向などが記されており、幕府はこれを通じて世界の動きをある程度把握していました。

「鎖国はなかった」という説は本当ですか?

「鎖国はなかった」という説は、言葉の定義を厳密に捉えた場合の考え方です。 この説の要点は以下の通りです。

  • 「鎖国」という言葉は当時存在しなかった。
  • 長崎、対馬、薩摩、松前という「四つの口」があり、完全に国を閉ざしていたわけではない。
  • 幕府の政策は、国を閉ざすことが目的ではなく、あくまで幕府の管理下で貿易と外交をコントロールする「海禁」政策の一環だった。

つまり、「私たちがイメージするような完全な孤立状態ではなかった」という意味合いで、「鎖国はなかった」と表現されることがあります。歴史研究の進展により、近年ではこのような見方が主流になりつつあります。

ペリーが来航しなければ鎖国は続いていましたか?

これは歴史の「もしも」の話なので断定はできませんが、ペリーが来なくても、遅かれ早かれ開国せざるを得なかった可能性が高いと考えられます。19世紀に入ると、アメリカだけでなく、ロシアやイギリス、フランスといった欧米列強の船が次々と日本近海に現れ、通商を求めていました。 これは、産業革命を経て世界市場を求めていた欧米諸国の世界的な動きの一環でした。ペリーの来航は、その動きが日本に到達した象徴的な出来事であり、たとえ彼が来なくても、他の国が同様の要求を突きつけてきたことは間違いないでしょう。幕府内部でも、開国の必要性を唱える声は徐々に高まっていました。

まとめ

まとめ

本記事では、江戸幕府が「鎖国」という政策に踏み切った3つの大きな理由と、その背景、影響について詳しく解説してきました。最後に、この記事の要点を箇条書きでまとめます。

  • 鎖国の主な理由は3つに集約される。
  • 理由①はキリスト教の禁止と国内の安定。
  • キリスト教の「神の前の平等」の教えを恐れた。
  • 島原・天草一揆がキリスト教禁止を決定的にした。
  • 理由②は幕府による全国支配体制の強化。
  • 西日本の大名が貿易で富むことを警戒した。
  • 貿易を管理し、幕府の権威を高める狙いがあった。
  • 理由③は貿易利益の独占。
  • 貿易で得られる莫大な利益を幕府の財源とした。
  • 金銀など貴重な資源の海外流出を防いだ。
  • 「鎖国」という言葉は江戸時代には存在しなかった。
  • 完全に国を閉ざしたわけではなく「四つの口」があった。
  • 鎖国のメリットは、長期的な平和と独自文化の醸成。
  • デメリットは、世界の技術革新からの遅れ。
  • 鎖国は約215年間続き、日米和親条約で終わった。
鎖国の理由は3つ!キリスト教禁止、幕府の支配強化、貿易独占をわかりやすく解説

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次