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額田王はどんな人?天智・天武天皇を虜にした才色兼備の歌人!その生涯と有名な歌を徹底解説

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額田王はどんな人?天智・天武天皇を虜にした才色兼備の歌人!その生涯と有名な歌を徹底解説
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「額田王(ぬかたのおおきみ)って、歴史の授業で名前は聞いたことあるけど、一体どんな人なの?」
「天智天皇と天武天皇の兄弟に愛されたって本当?なんだかドロドロしてそう…」

日本史上最も有名な女性歌人の一人、額田王。彼女の名前には、どこか神秘的でロマンチックな響きがありますよね。しかし、その華やかなイメージとは裏腹に、彼女の生涯や人物像については、意外と知られていないことが多いのではないでしょうか。本記事では、謎多き歌人・額田王がどんな人物だったのか、その生涯、二人の天皇との禁断の恋、そして彼女が遺した珠玉の和歌まで、初心者にも分かりやすく徹底的に解説していきます。

目次

結論:額田王は絶世の美女で情熱的な歌人

結論:額田王は絶世の美女で情熱的な歌人

額田王が一体どんな人物だったのか、気になりますよね。結論から言うと、彼女は類まれなる美貌と、あふれる才能を兼ね備えた、非常に情熱的な女性だったと考えられています。彼女の人物像を理解する上で欠かせない3つのポイントを、まずはご紹介しましょう。

  • 類まれなる美貌の持ち主
  • 天皇兄弟を虜にした恋多き女性
  • 万葉集を代表する情熱的な歌の詠み手

類まれなる美貌の持ち主

額田王について語られるとき、必ずと言っていいほど触れられるのが、そのずば抜けた美しさです。残念ながら、彼女の肖像画などは現存しておらず、具体的な顔立ちを知ることはできません。しかし、当時の最高権力者である天智天皇と天武天皇という兄弟が二人とも彼女を深く愛したという事実が、何よりもその美しさを物語っていると言えるでしょう。

単に容姿が整っているだけでなく、内面からにじみ出る知性や品格、そしてミステリアスな雰囲気が、多くの男性を惹きつけてやまなかったのかもしれません。彼女の美しさは、歴史書が伝える事実以上に、彼女が詠んだ歌から私たちが想像する、ロマンチックな伝説の一部となっているのです。

天皇兄弟を虜にした恋多き女性

額田王の人生を最もドラマチックに彩っているのが、天智天皇(兄・中大兄皇子)と天武天皇(弟・大海人皇子)との三角関係です。もともと額田王は、弟である大海人皇子の妻となり、二人の間には十市皇女(とおちのひめみこ)という娘も生まれました。

しかし、その後、兄である中大兄皇子が彼女を望み、妻として召し上げることになります。弟の妻を兄が奪うという、現代の感覚では考えられないような出来事です。この複雑な関係が、後の壬申の乱という国家を揺るがす大きな争いの遠因になったと考える歴史家もいるほど、彼女の存在は大きな影響力を持っていたのです。二人の偉大な天皇から一身に愛を受けた、まさに「恋多き女性」でした。

万葉集を代表する情熱的な歌の詠み手

額田王は、ただ美しいだけの女性ではありませんでした。彼女は、万葉集に12首もの歌が収められている、当代きっての優れた歌人でもあったのです。彼女の歌は、天皇への想いをストレートに表現した情熱的な恋の歌から、国の安泰を願う荘厳な歌まで、非常に多彩です。

特に、二人の天皇の間で揺れ動く自らの心を詠んだとされる歌は、読む人の胸を打ちます。言葉巧みに、そして大胆に自らの感情を表現する才能は、彼女の美貌と同じくらい、人々を魅了したことでしょう。彼女の歌があったからこそ、私たちは1300年以上経った今でも、彼女の喜びや悲しみ、そして恋心に触れることができるのです。


額田王の生涯と経歴

額田王の生涯と経歴

絶世の美女で、才能あふれる歌人だった額田王。彼女は一体、どのような人生を歩んだのでしょうか。その生涯は、華やかな宮廷生活の裏で、時代の大きな渦に翻弄される、波乱に満ちたものでした。ここでは、彼女の生涯を4つの時期に分けて見ていきましょう。

  • 生い立ちと出自の謎
  • 大海人皇子(後の天武天皇)との結婚と十市皇女の出産
  • 中大兄皇子(後の天智天皇)からの寵愛
  • 天智天皇崩御後の動向と晩年

生い立ちと出自の謎

額田王の正確な生没年は、実は分かっていません。彼女の出自についても、『日本書紀』や『万葉集』に記述はあるものの、謎に包まれている部分が多いのが実情です。

一般的には、鏡王(かがみのおおきみ)の娘として生まれたとされています。しかし、この鏡王がどのような人物だったのか、詳しい記録は残っていません。一説には皇族であったとも言われており、もしそうであれば、額田王も生まれながらにして高貴な身分であったことになります。

また、彼女の姉妹とされる鏡王女(かがみのおおきみ)も、同じく歌人として知られ、後に天智天皇の妃となっています。このように、彼女の周辺には皇族との深いつながりが見え隠れしており、そのミステリアスな出自が、彼女の魅力を一層引き立てているのかもしれません。

大海人皇子(後の天武天皇)との結婚と十市皇女の出産

若き日の額田王は、大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇に見初められ、彼のもとに嫁ぎました。二人は仲睦まじかったとされ、650年頃には娘である十市皇女が生まれています。

大海人皇子は、兄である中大兄皇子を支える有能な弟として、当時から高い評価を得ていました。活発で行動的な性格だったと伝えられる大海人皇子と、情熱的な歌を詠む額田王は、お似合いの夫婦だったのかもしれません。この時期は、額田王にとって、愛する夫と娘に囲まれた、穏やかで幸せな日々だったと想像されます。しかし、この幸せな時間は、長くは続きませんでした。

中大兄皇子(後の天智天皇)からの寵愛

弟の妻でありながら、その美貌と才能で宮廷でも評判だった額田王に、兄である中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、後の天智天皇が目をつけます。中大兄皇子は、当時、皇太子として絶大な権力を握っていました。彼は、弟の妻である額田王を強く望み、自らの妃として召し上げたのです。

この出来事が、額田王本人の意思だったのか、それとも権力による強制だったのかは、今となっては知る由もありません。しかし、結果として彼女は夫と娘と引き離され、兄である中大兄皇子のもとで暮らすことになります。この複雑な人間関係が、彼女の心にどのような影を落としたのか。その苦悩や葛藤は、彼女が後に詠むことになる数々の歌に、色濃く反映されていくことになります。

天智天皇崩御後の動向と晩年

671年、額田王を寵愛した天智天皇が崩御します。そして翌672年、天智天皇の息子である大友皇子と、額田王のかつての夫である大海人皇子の間で、皇位をめぐる日本古代史上最大の内乱「壬申の乱」が勃発しました。

この戦いに勝利したのは、大海人皇子でした。彼は即位して天武天皇となります。天智天皇の死後、額田王がどうなったのか、詳しい記録は残っていません。一説には、再び天武天皇のもとに戻ったとも言われていますが、定かではありません。

しかし、壬申の乱の後も、彼女が宮廷歌人として歌を詠んだ記録が残っていることから、天武天皇の時代においても、彼女が依然として重要な存在であったことがうかがえます。波乱の人生を送りながらも、その才能によって晩年まで宮廷で活躍し続けた、たくましい女性だったのです。

額田王と二人の天皇【禁断の三角関係】

額田王と二人の天皇【禁断の三角関係】

額田王の物語の中で、最も人々の興味を引くのが、天智天皇と天武天皇という兄弟との三角関係でしょう。弟の妻を兄が奪うという衝撃的な展開は、1300年以上経った今も、多くの憶測や物語を生み出しています。この禁断の恋の真相に、彼女たちが詠んだ歌を通して迫ってみましょう。

  • 弟・大海人皇子(天武天皇)との恋
  • 兄・中大兄皇子(天智天皇)との恋
  • 揺れ動く心を詠んだ相聞歌

弟・大海人皇子(天武天皇)との恋

額田王が最初に結ばれたのは、弟である大海人皇子でした。二人の間には十市皇女も生まれ、幸せな家庭を築いていたと考えられます。大海人皇子が額田王に寄せた想いの深さは、後に彼女が兄・中大兄皇子のもとへ去った後も、変わらなかったと言われています。

その証拠とされるのが、有名な「紫野(むらさきの)」の歌のやり取りです。兄の妻となった額田王に対し、大海人皇子は情熱的な歌を詠みかけます。それは、かつての妻への未練と、今も変わらぬ愛情を示すものでした。活発で情熱的な性格だったとされる大海人皇子にとって、額田王は生涯忘れられない女性だったのかもしれません。二人の関係は、単なる過去のものではなく、常に心の奥底で燃え続ける炎のようなものだったのでしょう。

兄・中大兄皇子(天智天皇)との恋

一方、兄である中大兄皇子は、弟の妻である額田王を自らのものとしました。これは単なる横恋慕だったのでしょうか。一説には、額田王の類まれなる才能、特に彼女が持つとされる巫女(みこ)としての能力を、政治的に利用しようとしたのではないかとも言われています。

しかし、彼が額田王を深く愛していたこともまた事実のようです。彼が額田王に贈ったとされる歌からは、彼女を独占したいという強い想いが感じられます。知的で冷静な策略家として知られる天智天皇ですが、額田王の前では、一人の男性として嫉妬や愛情を隠せなかったのかもしれません。権力者として全てを手に入れた彼が、唯一、心から欲したのが額田王だったと考えると、その恋の激しさが伝わってきます。

揺れ動く心を詠んだ相聞歌

二人の天皇から愛されるという、数奇な運命をたどった額田王。彼女の心は、一体どちらにあったのでしょうか。その複雑な心境を読み解く鍵となるのが、彼らの間で交わされた「相聞歌(そうもんか)」、つまり恋の歌です。

特に有名なのが、蒲生野(がもうの)での薬狩りの際に詠まれたとされる歌のやり取りです。

まず、大海人皇子が額田王にこう詠みかけます。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(紫草の美しいこの野を行き、標野を行きながら、野の番人は見ているだろうに、あなたはそんなに袖を振るのか)

これは、「私のことなど忘れて、新しい夫(天智天皇)に夢中なのですね」という、嫉妬と皮肉のこもった歌です。それに対し、額田王はこう返します。
「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」
(こんなにも美しく咲き誇っているあなたを、もし憎いと思っていたなら、人妻であるあなたに、どうして私が恋い焦がれることがあるでしょうか)

これは、大海人皇子の歌に対する天智天皇の代作とも言われていますが、額田王の返歌とされています。この歌は、大海人皇子の問いかけに対する直接の答えを避けつつも、「人妻となってしまった私に、今さらそんなことを言わないでください」という、切ない本心がにじみ出ているようです。二人の男性の間で揺れ動く、彼女の苦しくも情熱的な心情が伝わってくる名歌です。

額田王の代表的な和歌3選【現代語訳付き】

額田王の代表的な和歌3選【現代語訳付き】

額田王の魅力を語る上で、彼女が遺した和歌は欠かせません。その言葉は、1300年以上の時を超えて、私たちの心に直接響いてきます。ここでは、彼女の代表的な和歌を3首選び、その背景や意味を分かりやすく解説します。

  • ① あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
  • ② 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
  • ③ 君待つと 我が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

① あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

原文:茜草指 武良前野行 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
読み:あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

現代語訳:
(美しい紫草の生えている、あの御料地の野を行きながら、あんなにも袖を振っていらっしゃる。野の番人が見ているではありませんか。あなたは誰に合図しているのですか。)

これは、先ほども少し触れた、蒲生野での薬狩りの際に、額田王が大海人皇子に向けて詠んだとされる歌です。しかし、近年の研究では、これは大海人皇子が額田王に詠んだ歌であり、それに対して額田王が返歌をした、という説が有力になっています。

ここでは、大海人皇子が詠んだ歌として解釈してみましょう。兄である天智天皇の妻となってしまった額田王が、楽しそうに袖を振っているのを見て、「野の番人(=天智天皇)が見ているのに、そんなに無邪気に袖を振って。一体誰に気があるんだい?」と、嫉妬と未練を込めて問いかけているのです。「君が袖振る」という表現には、かつての恋人への変わらぬ愛情と、現在の状況へのやるせない気持ちが凝縮されています。非常にドラマチックで、二人の複雑な関係性が見事に表現された一首です。

② 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

原文:熟田津尓 船乗為将跡 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝出与
読み:にきたつに ふなのりせむと つきまてば しおもかなひぬ いまはこぎいでな

現代語訳:
(この熟田津(にきたつ)の港で、船出しようと月の出を待っていると、ちょうど潮の流れも良くなった。さあ、今こそ船を漕ぎ出そうではないか!)

この歌は、恋の歌とは趣が異なり、非常に雄大で力強い一首です。661年、時の天皇であった斉明天皇(天智天皇・天武天皇の母)が、百済を救うために朝鮮半島へ出兵する際、伊予の熟田津(現在の愛媛県松山市道後温泉付近)に立ち寄った時に額田王が詠んだ歌とされています。

これから始まる大きな戦を前に、月の出と潮の満ちる瞬間を捉え、「さあ、出発の時は来た!」と全軍の士気を高める、堂々とした歌いぶりです。この歌からは、彼女が単なる恋多き女性ではなく、国家的な事業においても重要な役割を果たす、公的な立場にあったことがうかがえます。恋の歌で見せる情熱的な姿とはまた違う、彼女の知性とリーダーシップを感じさせる名歌と言えるでしょう。

③ 君待つと 我が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

原文:君待跡 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋之風吹
読み:きみまつと わがこひをれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく

現代語訳:
(あなた様をお待ちして、恋しく思っておりますと、我が家の簾を動かして、秋の風が吹いてまいりました。)

この歌は、天智天皇が崩御した後に、額田王が天皇を偲んで詠んだ歌とされています。愛しい人(君)を待っていると、すだれが揺れたので「もしやあの方が?」と期待したら、それはただ秋風が吹いただけだった…という、切ない恋心と寂しさが見事に表現されています。

「すだれ動かし」というわずかな動きに、ハッとする作者の心のときめきと、それが風だと分かった時の落胆。その一連の心の動きが、目に浮かぶようです。激しい情熱を歌った若い頃とは異なり、静かに深く相手を想う、成熟した大人の女性の心情が伝わってきます。この歌は、万葉集の中でも屈指の恋愛歌として、多くの人々に愛され続けています。

額田王に関するよくある質問

額田王に関するよくある質問

額田王の性格は?

額田王の性格は、彼女が詠んだ歌から推測するしかありませんが、一般的には「情熱的で素直、そして大胆な女性」であったと考えられています。二人の天皇からの愛を受け止め、その間で揺れ動く心をストレートに歌に詠む姿からは、自分の感情に正直で、非常に人間味あふれる人物像が浮かび上がります。

一方で、「熟田津に」の歌のように、公的な場で全軍の士気を鼓舞するような雄大な歌も詠んでおり、知性的でリーダーシップのある一面も持ち合わせていたようです。情熱と理性を兼ね備えた、非常に魅力的な女性だったと言えるでしょう。

額田王はなぜ人気があるのですか?

額田王が1300年以上経った今でも人気がある理由は、主に3つ考えられます。

  1. ドラマチックな人生:天智天皇と天武天皇という、日本史上の重要人物である兄弟二人から愛されたというスキャンダラスな恋愛模様は、人々の想像力をかき立てます。
  2. 共感を呼ぶ和歌:彼女が詠んだ恋の歌は、喜び、嫉妬、切なさといった普遍的な感情に満ちており、時代を超えて多くの人の共感を呼びます。
  3. ミステリアスな存在:正確な生没年や出自が不明であるなど、謎に包まれた部分が多いことも、彼女のミステリアスな魅力を高めています。

これらの要素が組み合わさることで、額田王は単なる歴史上の人物ではなく、物語のヒロインとして、今なお多くの人々を惹きつけているのです。

額田王と鏡王女の関係は?

鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王の姉、あるいは妹とされる人物です。彼女もまた優れた歌人であり、万葉集に歌が残されています。

鏡王女は、はじめ天智天皇(中大兄皇子)の妃でしたが、後に藤原鎌足の正室となりました。姉妹そろって天皇の妃となり、歌の才能にも恵まれていたということから、非常に高貴で教養の高い家柄の出身だったと推測されます。二人の関係がどのようなものであったか詳しい記録はありませんが、同じ宮廷で互いの才能を認め合う、良きライバルであり、良き姉妹だったのかもしれません。

額田王の子どもは誰ですか?

額田王には、大海人皇子(後の天武天皇)との間に生まれた十市皇女(とおちのひめみこ)という娘が一人います。

十市皇女の生涯もまた、母である額田王に劣らず波乱に満ちたものでした。彼女は、父・大海人皇子のライバルである天智天皇の息子、大友皇子(おおとものみこ)に嫁ぎます。しかし、その後、父と夫が皇位を争う「壬申の乱」が勃発。結果的に父が勝利し、夫は敗死するという悲劇に見舞われました。乱の後、彼女は伊勢神宮に仕えていたとされますが、30歳ほどの若さで亡くなったと伝えられています。

額田王のお墓はどこにありますか?

額田王のお墓の場所は、特定されていません。しかし、彼女のお墓ではないかとされる場所が、奈良県内にいくつか存在します。

  • 奈良県大和郡山市の額田部窯跡付近:この地が「額田」という地名と関係があることから、有力な候補地の一つとされています。
  • 奈良県明日香村の岩屋山古墳:斉明天皇陵の近くにあるこの古墳も、額田王の墓とする説があります。

いずれも確証はなく、伝説の域を出ません。彼女の最期が謎に包まれていることもまた、そのミステリアスなイメージを強める一因となっています。

額田王の読み方は?

額田王は「ぬかたのおおきみ」と読みます。「額田」が名前で、「王(おおきみ)」は皇族の女性に付けられる称号です。テストなどでも読み方が問われることがあるので、覚えておくと良いでしょう。

まとめ

まとめ
  • 額田王は飛鳥時代の絶世の美女で情熱的な歌人。
  • 弟・大海人皇子(天武天皇)の妻だった。
  • 後に兄・中大兄皇子(天智天皇)の妻となった。
  • 天皇兄弟との三角関係は歴史上の謎とされる。
  • 大海人皇子との間に十市皇女をもうけた。
  • 万葉集に情熱的な恋の歌が多く残されている。
  • 代表歌に「あかねさす紫野行き標野行き」がある。
  • 「熟田津に」の歌では公的な一面も見せる。
  • 「君待つと」の歌では切ない恋心を詠んだ。
  • 性格は素直で大胆、かつ知性的だったとされる。
  • ドラマチックな人生と和歌が人気の理由。
  • 姉妹とされる鏡王女も歌人であった。
  • 娘・十市皇女もまた波乱の生涯を送った。
  • お墓の場所は特定されておらず、複数の伝承地がある。
  • 読み方は「ぬかたのおおきみ」。
額田王はどんな人?天智・天武天皇を虜にした才色兼備の歌人!その生涯と有名な歌を徹底解説

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